"" インクルージョン!より大きな視点から考えてみよう
Inclusion! The Bigger Picture By Jack Pearpoint & Marsha Forest
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新世紀を迎えるにあたり一つの鍵となる問いは、「どうやっていろんな人間と互いに暮らしていくか?」ということであろう。インクルージョンとは、まさにいろんな人間と互いに暮らしていくことを学ぶ事に等しい。インクルージョンは”一緒に居る”ことである。インクルージョンとはまさに”インクルード(含める、包み込む)”することなのである!
インクルージョンとは、所属する事、結合する事、含むこと、囲み入れること、巻き込むこと、取り巻くこと。そして、「一緒に」ということ。インクルージョンとは、互いに一緒にいることで、互いに助け合うこと。そして、家族や子供達や地域に住む人たちを、新しい文化、そして新しい現実の一部として迎えること。インクルージョンとは、新しくエキサイティングな様々な教育概念(ex. 協力的学習、生涯教育、コンピューター技術など。)をうまく活かして取り入れること。インクルージョンとは、何かの理由でそれまで取り残されていた人たちを迎え入れ、全ての人間がパートナーそして仲間として可能な限り最大限参加できるような新しいシステムを構築するための手助けをしてくれるように協力を呼びかけることなのである。

 

インクルージョンとは迎え入れること!

「わたしは仲間として迎え入れられたい!」ーこんな単純な望みが、様々な〜様々な年令、形、サイズ、色、そして文化をもった〜人たちによって語られ、手話により表現され、キーボードにより打ち出され、囁かれ、そして大きな声で訴えられている。多くの場合自分自身のための要求であり、またある人にとっては、友だちや老齢の親戚のために求める要求であるかもしれない。その要求は単純明快なものであり、そしてその答えも同じくらい単純なものである。

「ようこそ!いらっしゃい!どうぞわたしたちの、わたしたちの仲間になってください。」

このようなつつましい主張が、何故かくも大きな反応を引き起こすのか?何ゆえ、意に反して「障害者」としてレッテルを貼られた人々を迎え入れることが「急進的」な活動と見られるのか?受容することは、急進的なことなどではないはずだ。家族や友だちの事を想うことだって急進的なことなどではない。事実、受容や誰かを愛し想うことは、まさにわたしたちの文化の基盤である。なのに、一体なぜ、インクルージョンに対してこうも強い反応が返ってくるのか?

インクルージョンというトピックは、わたしたちがもつ価値観や信念のまさに核の部分に触れることであるとわたしたちは信じる。インクルージョンは、実に単純で、良識のかたまりのようにも見えるが、それでいて実は複雑なのである。インクルージョンは、関わる人間の魂に火をつける。インクルージョンによって、わたしたちの人道主義的な信念が挑戦され、心の奥底があらわにされるのである。

インクルージョンとは、障がいをもつ子どもを単に教室や学校に入れることではない。それは、大きなパズルのごく小さな一つのピースにすぎない。むしろ、インクルージョンとはわたしたちがどのように多様性と向き合い、違いと向き合い、そして自分のモラルと向き合うか(あるいはそれから逃げるか)ということなのである。

もしそうでないとしたら、カナダやアメリカやイギリスやオーストラリアで、車椅子にのったほんの小さな子どもやダウン症をもった青少年が地域の学校に存在する事により引き起こされている人々の強い感情をどう説明できるだろうか?一体なぜ、いわゆる”普通の”大人達が、それまで疎外されていた子供達を迎え入れることについて触れられるだけで平静を失うのであろうか?いろいろ考えた末わたしたちは、そういった子供達の存在は大いなる変化の合図として捉えられ、そして多くの人にとって、変化とは恐るべきものであり、危険に満ちたものなのであろうと結論付けた。

しかしながら、危険の中には成長のチャンスも潜んでいる。すべての子供達を迎え入れることによって自分達の持つ恐れや道徳感と向き合おうとする学校・地域・教師や市民は、だからこそ常に新しい成長が生まれるような環境を作れるのである。そうしてインクルージョンが、より良く、より人に優しい民主的なシステムを築くチャンスとなり、触発剤となるのである。

インクルージョンという考え方は、「みんな同じ」ということでも「みんな同意」ということを意味するわけでもない。むしろ、インクルージョンは多様性や違いということを、尊敬と感謝の意とともに祝福することを意味する。多様性があればあるほど、新しいものを創りあげる能力と可能性は豊かになると考えるのである。またインクルージョンは、人種差別や男女差別の解毒剤にもなる。なぜならそれはそういった全ての”違い”を迎え入れ、他と”違う”ものを”劣るもの”としてではなく”新たなる可能性”として祝福するから。もしインクルージョンが、単に「利発な中級階級の白人」を含めることだとしたら、それはまさに茶番である。インクルージョンとは、すべての異なる人間が、互いに互いを支えあうことなのだから。

障がいをもつ子どもや大人達は、違いに対する自分の中の思いと向き合うという、わたしたちそれぞれに与えられた試練を象徴する。インクルージョンとは、いわゆる「普通の人」と呼ばれる人たちとは違う見た目、違う行動、違う考え方をわたしたちがどれだけ許容できるかということなのである。

われわれの未来は、互いが争うことなく共に暮らすことを学び、そして一人のこと、みんなのことを想う優しさをもって、社会全体の器と許容力を広げていく努力にかかっている。そしてまさにインクルージョンとは、わたしたちの「心」をより良い方向に導き育てることであり、人間が「地球家族」として生き残るための手段をわたしたちに提供する事にも匹敵するのである・・・。

 

インクルージョン!それはまさに「変化」ということ!

インクルージョンとは「変化する」ということ。インクルージョンと変化は、切り離せない要素であるとわたしたちは考える。その変化と共に何かを学びとり成長するかどうかは、わたしたちに任せられた選択である。インクルージョンに関する感情的なミーティングに多く参加してきたことは、大変教訓的な経験であった。実はインクルージョンというのは単に名目上の議題であって、真の議題(はっきりそうであると表立って表現されることはまずないが)は、変化に対する人々の恐れであるということが、ミーティングが始まってすぐに明らかになった。教育や社会福祉・医療サービスで働く多くの人間は、自分が職を失うのではないかと恐れた。また、これまでにない新しい責任が生じてくること、いまいち全体を理解出来ないこと、そして今までよりも明らかな形で自分達のサービスの結果が求められることを恐れた。

そういう人々からよく聞かれた言葉は、「だってお金がないわ!」「だってそんな子供達の世話をするトレーニングは受けてきていないよ!」「だってわたしは障がい児教育を選んだわけじゃありません!」「だって特別なカリキュラムを作るためのガイドラインもないよ!」「だって”彼ら”のために特別なプログラムをたてる時間なんてありませんよ。そんなことしたら他の子供達に不利益が被るじゃないですか!」・・・どこかで聞いたことのあるようなフレーズ・・・もっと深く耳をすましてみると・・・大部分の「だって」は、実は自分自身を守るための言葉のようである。

他の子供達に対する注意が行き届かなくなることを心配するような「だって」という言葉は、すでに何世紀ものあいだ知られている協力的学習やピアチュータリングに関する知識に対する無知さを反映するものであり、またしばしば本当の恐れを隠すための隠れみのであることが多い。「自分が持つコントロールの力を失いたくない!」「わたしが全てのことは知らないと言うことを人々に知られてしまうかもしれない!」「そんなのやりたくない!」「なんか不安だ!」ー 不平不満の多くの根底に流れるのは、実はこんな感情である事が多い。多くの人々にとって、心の中の深い深いところに、大いなるデリカシーをもって引き出されるべき恐れが忍んでいる。人々は、自分の弱いところや不完全なところと向き合わされることを恐れる。それを他の人に知られたら「あいつらにやっつけられるかもしれない。」と不安に思うのである。

こういった深いところに眠る不安は、わたしたちの文化の産物である。教師や社会福祉・医療サービスの人間が恐れを抱くことは、彼等個人の責任ではない。私たちは皆、市民そして納税者として、「彼ら」を視野外におくことを教えられてきた。しかし、今にいたってようやく、誰かを外へ追いやるということは、その人々を根絶させるようなことと紙一重の行動である事をわたしたちは知るようになった。映画「シンドラーのリスト」は、人々を強制的に分離する事は、命にも関わるような脅威であることをわたしたちに思い出させてくれる。つまり、わたしたちの答えはこれである。恐れと向き合ってとにかくやる(つまり全ての人間をインクルードする)。恐らくしばらくの間は慣れずに落ち着かないだろう。もしかしたら非常な恐怖感をあおられることもあるかもしれない。しかし、恐れは必ず過ぎ去る。恐れと向き合ってとにかく物事を進めてさえいけば、不安はたちまち消え去り逆にわたしたちの視野を広げる材料にさえなる。わたしたちは何百もの「インクルージョンの不安を乗り越えた人々」と会話を交わしてきた。教師やその他の関連サービス提供者など、当初はとても硬直していたと言う。彼等は、はじめ数週間頭痛と共に過ごし、その後は魔法のごとく恐れは消え去ったことを話してくれた。多くの人々とその時期の事について話しをしてみると、そこには一貫したパターンが見えてきた。ひとり残らず、みんなが皆初めは不安だったこと憶えていた。

何について恐れていたかは誰も覚えていなかった・・・とにかく恐れ、そしてそれは過ぎ去った。様々な危機的状況に陥った時、人々は通常6週間程度で普段の生活パターンに戻ると言う。

わたしたちは教訓を学んだ。誰かが変化と直面した時、つい「大丈夫。大丈夫。心配しなくても大丈夫。」と声をかけてしまうことが多いが、なんてばかげた言葉だろう!インクルージョンとは、まさに変化そのものである。そして変化は、誰にとっても恐ろしいもの。不安なもの。予測不可能だから。しかしながら、事は各個人が持つ人間としての権利と生き残りに関わる問題だから、わたしたちはやるしかないのである。誰も、誰かを除外する権利など持たないのである。不安は、単に乗り越えるべき障害。そんなものが、誰かの権利を否定する理由になるはずもないし、なってはいけないのである。

もう一つわたしたちが学んだ教訓は、変化という危機的状況を乗り越えるためには、人々はサポートが必要であるということである。非常に興味深い事は、このことは予算という問題とはなんの関係もないということである。変化を乗り越えるための有効なサポートの鍵となる要素は、支持的な良い人間関係である。つまりわたしたちが必要なのは、相手を選ばず親切にすること、そして時や場所や相手を選ばずに良い事・美しい事をする、実はそんなことなのである。優しい言葉かけ、思慮深い行動。そして、誰かの手助けを必要とした時に、誰かがそこに居てくれると感じられる事。

わたしたちがこれから大切にするべき事はこれまでですでに明らかであろう。競争ではなく協力。強制ではなく参加。孤立ではなく人との結びつき。独立ではなく支え合い。そして孤独ではなく友情。

 

所属感に対するニーズ

インクルージョンは新しいプログラムであるわけでも、誰かが誰かの”ために”あるいは”対して”やるようなことでもない。また流行りで出てきたものでも、そのうちすぐに見捨てられるべき気紛れによるものでもない。あるいは新しいラベル(例えば、「インクルージョン児」とか。)などでもない。時流に便乗して出てきたようなものでもない。人間と言うのは、包含されるか疎外されるかのどちらかである。”ちょこっとだけ妊娠してる”とか”ちょこっとだけインクルードされてる”というようなことはないのである(例えば、”インクルーシブ”な休み時間とかお昼の時間、といったまやかしは存在しない)。人は、中か外のどちらかしかない。属するか属さないかのどちらかしかないのである。誰かを疎外した時、わたしたちはその人が自分の人生のために戦う道を強いているのであるー仲間に入り、属するための戦いに。

疎外された多くの人々は、属する事を勝ち取る戦いにおいて自分達は何も失うものなどなく、ただ何かを勝ち取るのみ、と考える。多くの若者は、生死に関わる戦いとして受け止める。十代の若者たちは、何かに所属する事をこの上なく求め、生きる事の意味を見い出す事を求めてギャングの仲間に入る。若者達に所属感を感じさせる事のできない社会の不能性に対する反応としてギャングが存在する時、我々の若い力が所属感を求めて文字通り死んでいく姿を見る時、わたしたちが生きるシステムをしっかりと見直す事への強烈な警告であると、わたしたちはとるべきであろう。

われわれの社会がこのような危機にある状態に対し、バリケードをはり、自分の敷地をがっちり守るべきであると多くは主張する。よく聞く反応は、「警察をもっと雇え!」「刑務所をもっと建てろ!」「障がい児教育の教室をもっと造れ!」「電気イスをもっと施行しろ!」「行動調整用の薬をもっと出せ!」というようなものである。規制、規制、もっと規制・・・・。しかし、ここで一つ違う可能性もある。全ての人間を迎え入れて、受容と愛と助け合いと理解のある社会を築く、という可能性。

この世界、実に大きな問題を抱えている。私たちは、それらと正直に向かい合い、分析し、過去から学び、そして前へと進まなければならない。変化する事の必要性は何かによってちゃらにできるようなものではない。ここで私たちが問わなければならないのは、変化と共に走るか、それともひきずられてじたばたし、泣き叫びながら2000年に突入するか?変化というのは、白く流れる早瀬のようなものである。危険ではあるけれど、きちんと訓練と計画を行えば、それは人生最大の快感となる。変化はもうすでにここにある。わたしたちの社会は既に白い滝と化している。そこに陸路などない。選択肢は限られている。流れる早瀬と共に走り喜びと共に歓喜の叫び声をあげるか、それともそのまま沈んでいくか。

この世は葛藤に満ちている。そこは否定できない。わたしたちは、それを否定するかわりに、葛藤の解決として安易に暴力という手段にながれることを避け、様々な違いや葛藤と共に生きることを学び、われわれの許容力を強めるべきである。葛藤はあって然るべきものである。意見が異なる可能性についてはみんなの意見が一致するだろう。暴力という手段は、もはや通用しない。われわれが破壊されるだけである。

新しい技術革新時代の到来と共に、人を理解する事、コミュニケートすることについても革命が起こるだろう。そしてその重要なポイントは、やはり「どうやっていろんな人間と一緒に暮らしていくか」ということに尽きる。われわれが生き残るためには、"ハイテク(High tech) " ならぬ "ハイタッチ(High touch)”、つまり純粋なる人と人とのコミュニケーションの時代に突入しなければならない。この新しい冒険の中で、過去に除外され拒絶されてきた人間以外に一体誰が、純粋なるコミュニケーションのことをわたしたちに教える事ができようか?

十代の若者の自殺、ランダムに繰り広げられる暴力、通り差間の発砲、ギャングなどは、電子レンジで「チン」とすれば答えが出たり調子のいいお決まりの答えで解決される事のない、社会の根本的な不能性のシグナルにすぎない。わたしたちは、深く考えなければならない。難しい決断をし、一生懸命取り組む意欲が必要である。インクルージョンは、わたしたちがこの世界に望む姿について深く、考えさせてくれる。ご近所さんにはどんな人がほしい?私たちが住む地域、教会、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)、モスク、そして学校に、どんな場所であってほしいか?

多様性のある社会は、住む場所として学ぶ場所として、より豊かで、より生産的で、より良い場所であるとわたしたちは信じる。インクルーシブな社会は、未来を良い方向に創りあげる可能性と許容力があると、わたしたちは信じる。みんなに、より良い人生を送ってもらいたいのだ。だからこそ、わたしたちはインクルージョンを求める!

地球を半周もした都市にピンポイントの焦点をあてて爆弾を発射させたり、人を宇宙に飛ばす事ができるほどの技術と知識を持ち合わせたわたしたちだから、「みんなのための自由と正義」をもってみんなで一緒に暮らす方法など、きっとみつけられるに違いない。インクルージョンは、真に、そして単に、人々の意志の問題なのである。

 

出典:Forest, M. & Pearpoint, J. (web page) 1996, June; http://www.inclusion.com/ (Accessed June, 1996).

 

 

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